ぶっちー、

お返事ありがとう。

「仕事が長続きしない」とのことですが、「仕事が長続きしないけど生きていけてる」が長続きしているようなので、いいんじゃないですかね。
次回は「我々(俺とぶっちー)はなぜ仕事が長続きしないのか?」をお題にしましょうか(ペガサスだから!はナシです)。

今日は土曜日なので、もう少し週末っぽい話を。

先日、アカデミー賞を受賞した韓国映画「パラサイト 半地下の家族」を観たんですよ。
字幕で観てたから、2時間ぶっ通しで韓国語(と、たまに韓国人訛りの英語)を耳にしてたんだけど、観終わってからふと、アメリカでサマースクールに通っていた頃のことを思い出して。
というのもその頃、毎日「2時間ぶっ通しで韓国語(と、たまに韓国人訛りの英語)を耳にしてた」んですよ。
今から19年前、2001年の夏、俺は当時14歳でした。

アメリカに住んでいた頃の話って、ぶっちーにあまりしたことないんじゃないかな。
日本で中学2年生を終えて4月に渡米した俺は、すぐに現地校には行かず、まず外国人向けの語学学校に通ったのね。
語学学校と言っても、有名な私立のハイスクールの付属校で、なかなかハイソな語学学校だったのよ。
Lake Forest Academyって言うんだけど、その名の通りキャンパスに湖と森があった(ICUも真っ青でしょ。湖は冬になると凍る。イリノイ州の冬は寒い)。
今、調べたらホームページあったけど(https://www.lfanet.org/)、改めて見たら何ともICU感があるな。笑
ハイスクールも語学学校も原則、全寮制で(やはりICUみたいな感じで、キャンパス内に男女別の寮がいくつかある)、制服はないけどシャツにネクタイ着用がドレスコード。
それまで黒い学ラン着て山手線に乗ってた冴えない男子中学生が、いきなりアイビースタイルで通学する羽目になったわけだ。
金曜日はカジュアルデーでノータイ、かつデニムとかもOKになる(Tシャツはダメだった気がする)。
食事はキャンパス内にあるカフェテリアで、一日三食ビュッフェ(メジャーリーグ球場のメディア関係者用カフェテリアにも遜色ないクオリティだったことが、約10年後にわかった)。
要するにまあ、なかなかのボンボン&お嬢様向け学校だったんですね。
俺は父親の会社が学費出してくれたから、通えたんだけどさ(父親の仕事の都合でアメリカに行ったからね)。

俺は最初、寮ではなく家族と一緒に暮らしながら(学校から車で20分くらいのところに一軒家を借りていた)、母親に車で学校まで送り迎えしてもらってた。
俺が集合住宅ではなく一軒家で暮らしたのは、人生で後にも先にもこのときだけです。
バスケコート付きのガレージ、都心のワンルームマンション7部屋分くらいの広さがある庭、卓球台とビリヤード台が置かれたベースメントがあった。
(最近流行りの「在宅勤務」は、郊外の大きな家で暮らすアメリカ人にとっては最高だけど、日本の狭苦しい住宅環境、特に都心の「靴箱みたいな部屋(©️ぶっちー)」には向いてないから、あまり定着しないと思うんだよね。俺はもう一歩進んで「どこでも勤務」を提唱したいんだけど、その話はまた今度)

で、春先は親元に住みながら学校に通ってアメリカ生活にも慣れてきた俺は、6月半ばから7月末にかけて約1ヶ月半、他の生徒たちと一緒に寮生活をしながらサマースクールに通うことになりました。

サマースクールがあるのは語学学校だけで、ハイスクールのボンボン&お嬢様たちは皆、夏休みで地元に帰るのね(他の州から来てる子とかもたくさんいる)。
そうすると、普段はハイスクールの子たちが使っている一番立派な寮の部屋が空くので、サマースクール期間中は語学学校の生徒たちが男女共用でその寮を使うのです。
ちょうど40人くらい住める寮で、語学学校の生徒もちょうど40人くらいだった。

その40人の内訳だけど、俺の記憶が正しければ、、、

韓国人:30人
日本人:5人
中国人:1人
ペルー人:1人
ブラジル人:1人
もう一人南米系(エクアドルかどこか):1人
ヨーロッパ系(イタリアかどこか、いや東欧系だったかも):1人

という、かなり偏った人種構成というか「あれ、ここはソウルだったっけ?それともプサン?」みたいな感じだったんですよ。
「キャンパス内のコミュニケーションは英語で」というのが一応ルールだったけど、まあ英語よりも韓国語を聞いている時間の方が長かったんじゃないかな。
寮生活は基本、二人一組のルームシェアなんだけど、俺のルームメイトも韓国人だった。
秀才かつ変人で、他の韓国人たちからも「アイツ、ちょっと変だよね」と言われるようなやつだった。

サマースクールは普段のセメスターよりずっとカジュアルな感じで、服装は自由。
土日は毎週、自由参加のレクリエーションがあった(シカゴのダウンタウンに皆で出かけたり、7月4日の独立記念日に花火大会行ったり、ミシガン湖のビーチに行ってドッジボールをしたり。あ、ミシガン湖は「湖」ではなく「海」です。それくらいデカイと思ってください)。
でも、平日は朝から晩までめちゃ勉強した(せざるを得なかった)。
日中は普通に授業があって(レベル別にクラスが4つにわかれていて、俺は下から2番目のクラスだった)、午後はクラブ活動(スポーツとか)とか自由時間、そして夜の8〜10時は「スタディアワー」と言って、寮の部屋のドアを開けたまま皆で宿題をする時間があった。
ミスター・ダンロップっていう、俺が授業に1分遅刻すると真顔で"Please could you tell me the reason why you are late?"とか詰め寄ってくる感じのメチャ怖い先生がいたんだけど(それ故に今も名前を覚えてる)、「スタディアワー」中は彼が寮の廊下を歩き回りながら、皆がサボってないかチェックするのね。
ICUのELPが可愛く思えるくらいの(単位落としたけど)、なかなかのスパルタ教育でしょ?
で、俺はスタディアワーの2時間では全然宿題が終わらなくて、夜中の12時くらいまでやってた気がする。
秀才かつ変人のルームメイトがさっさと宿題終わらせてイヤホンをしながら韓国語の歌を大声で歌っていたりするのを、隣で聴きながら。
まあ、そんな毎日を送っていました。

寮には共有のラウンジスペースがあって、15人くらい座れそうなソファと巨大テレビ、そしてお決まりの卓球台があって、夕方とか夜はよく溜まり場になってた。
一応、ラウンジから右側が男子フロア、左側が女子フロアっていう風にわかれてて、異性のフロアには入っちゃいけないことになってたから、ラウンジが男女関係なくお喋りとかできるスペースだったのね。
韓国語はおろか英語もろくに喋れなかったのに俺は一体何を話してたんだろう、と思うんだけど、よくこのラウンジで皆とお喋りしてた。
サマースクールの生徒は大体14〜17歳くらいで、俺は一番年下の部類だったんだけど、韓国人のお姉さん方(14歳から見たら16歳はもうお姉さん)にも可愛がってもらった(俺が少女時代とか好きなのはこの頃の影響というかこの頃に培われた歪んだ性癖です、多分)。
もちろん嫌なこととか悲しいことも色々あったんだけど(何せ14歳だから)、このサマースクールは総じてすごく楽しかった。
俺は日本に帰国後も、帰国子女ばかりの寮に住んだりソーシャルアパートメント暮らしもしたけど、数十人単位の人が同じ建物に暮らす、というのが好きになった原点は、間違いなくこのサマースクールだと思う。
それも「色んなバックグラウンドの人がいる」「男女が一緒に暮らしている」という環境が好きです(汗臭い男子寮は嫌です)。

ひとつ思い出のエピソードを語ると、サマースクール中のある夜、メジャーリーグのオールスターゲームがありました(今調べたところ、2001年7月10日)。

その日は「スタディアワー」も特別でナシになって、皆で(といっても韓国人と日本人と、野球好きのアメリカ人の先生で)ラウンジの大型スクリーンで試合を観てたのね。
その年、メジャーリーグで旋風を巻き起こしていた新人イチローがオールスターのファン投票で両リーグ最多票を獲得、アメリカン・リーグの1番バッターとして出場していた(その頃、アメリカの野球少年たちは皆がイチローのスウィングを真似してた、本当に)。
対するナショナル・リーグの2番手ピッチャーとしてマウンドに上がったのが、韓国人初のメジャーリーガー、バク・チャンホ。
「コリアン・エクスプレス」の異名(というほど捻りのあるネーミングでもないが)を持つ彼がマウンドに上がった瞬間、ラウンジを陣取っていた韓国人たちが「ワー!!!」と声を上げた(女の子たちも)。
パク・チャンホという選手は、大袈裟でなく「韓国の国民的英雄」だったのね。
俺は彼のことをよく知らなかったんだけど、ふと性格の悪さが顔を出して「ここでいきなりホームランとか打たれちゃったら面白いな」とか、ちょっと(だいぶ)意地悪なことを考えた。

で、パクが栄えあるオールスターゲームで投じた記念すべき第1球、何と相手打者が本当にホームランを打ってしまった。

静まり返る寮のラウンジ、なぜかちょっと気まずい俺。
いやあ、まさか本当にホームランとは、、、笑える、けど笑えない。
周りの韓国人たちは相当なショックを受けていて、この世の終わりみたいな顔をしてる奴もいれば、ちょっと涙目の奴もいる。

パクは次の打者を打ち取り、打席にはこの日2度目のバッターボックスとなる、イチロー。

イチローは第1打席で当時メジャー最強投手のランディ・ジョンソンから鮮やかにヒットを放ち、おまけに盗塁まで決めていた。
対するは、ホームランを打たれたばかりのパク。
メジャーリーグ史上初となるオールスターゲームでのアジア人対決、その結果は、、、

イチローがセカンドゴロに倒れ、パクの勝利。
すると、俺の隣に座っていた野球好きの韓国人男子が、俺を見てこう言った。

"You see? Park is better than Ichiro"(見たか?イチローよりパクの方が上だな)

ええ?! たった1回セカンドゴロに打ち取っただけで「上」って!
そもそもピッチャーとバッターだし、上とか下とかあんまりないんでないの?!
と、心の中で思いつつ、下手に反論して逆ギレされても嫌だし、特に何も言わずにおいた。

オリンピックとかワールドカップの盛り上がりを見てもわかるけど、彼ら(韓国人)はとにかく自国の選手を誇りに思っているし、そもそも愛国心がすごく強いんだよね。

それは単に国民性と言えるのかもしれないけど、今になって考えると、1997年のアジア通貨危機で韓国は国家経済が破綻するほどボロボロになって、韓国人の7人に1人が海外に出て行かざるを得ない(出て行かないと生きていけない)という状況になったそうだ。
そんな中で彼らは韓国人としてのプライドやアイデンティティを必死に見出そうとしていて、パク・チャンホはその期待を一身に背負っていたのかな、とか思う。
俺の周りにいた子たちも、経済的にはかなり裕福な家庭の子たちだったと思うけど、たぶん親に「アメリカで勉強しなさい(英語できれば世界で生きていけるから)」と言われて、単身で異国に放り出されて、子供ながらに(子供だからこそ?)アイデンティティ・クライシスみたいなものがあったんじゃないだろうか。
あと、ご存知かもしれないけど韓国人はクリスチャンが多くて(今調べたところ、韓国人の29%がキリスト教徒)、サマースクールの子たちも半数以上がクリスチャンだったんじゃないかな(十字架のネックレスやピアスをしてる子がたくさんいた)。
それが愛国心と関係あるかどうかはわからないけど、宗教でも野球選手でもいいから何かしら「信じるもの」を必要としていたのかな、とか思ったりもする。

もっとも今となっては、韓国映画がアカデミー賞を受賞し、K-POPが全米ヒットチャートを賑わせ、韓国人左腕のリュ・ヒョンジンが野茂もダルビッシュも届かなかった防御率1位をメジャーで獲得する時代になったのだが、、、

ニューヨーク・タイムズがアジアのデジタルニュース編集部を渦中の香港からソウルに移転するというニュースを数日前に見て、そうか、東京でもシンガポールでもなくソウルなんだな、と、妙に納得し、約10年前に1度だけしか行ったことのない韓国に久しぶりに行ってみたくなりました。
さらには今このブログを書いていて、18年ほど足が遠のいているシカゴ、というかLake Forest Academyのキャンパスに行ってみたくなりました。

何だかノスタルジックな思い出話になってしまいましたが、ぶっちーが15歳まで過ごした家の話を書いてくれたので、俺もこの話を書きたくなったのかもしれません。
お互いがお互いの話をあまり聞いてない感が強いこのブログですが、自分でも気付かぬうちにインスピレーションを受けているのかもしれませんね。

2020.07.18
ハル