電車が揺れる。
肩がぶつかる。

誰の肩なのか、わからない。
男なのか、女なのか。
振り返って確認しようにも、身動きが取れない。
周囲360度から、人間の身体が圧力をかけてくる。
息が苦しい、暑い。
まるで奴隷船だ。

もう一駅、もう一駅……

僕は深呼吸をして、斜め上の吊り革を見つめた。
電車の動きに合わせて、吊り革はゆらゆら揺れる。
まるで天井から糸で吊るされた、草臥れた藁人形のように。

電車が止まり、ドアが開く。

車内の奥の方から、凄まじい圧力が背中にかかる。
その力に押されるように、ときに抵抗しながら、慎重に電車を降りる。
駅のホームは大量の人間で溢れかえっている。
誰も笑わず、黙って階段を上がっていく。
僕もその行列の一員となり、周りとぶつからないように細心の注意を払いながら、ゆっくりと階段を上がっていく。
やがて階段を上りきり、改札を出て会社へと向かう。

新しい職場は、駅直結のオフィスビル9階にある。

経済活動のためだけに作られたようなこの街に、経済活動のためだけに建てられたようなビル。
入居している会社の多くが外資系企業で、外国人も多い。
僕の職場も例外ではなく、英国に拠点を持つ多国籍企業である。
日本に進出してからまだ日は浅く、ここ1年ほどで急激に成長、事業拡大している。
そんな大きなうねりの中で、僕も運良く職を得るに至ったわけだ。
人生は何事もタイミング、である。

ビルのエレベーターフロアにつくと、エレベーターを待つ人の長蛇の列ができている。
その列は直線では収まらず、スターバックスの店頭を経由してL字型になっている。
まるで社畜運送機、と僕は思う。
もっとも今では、この行列にも慣れてしまった自分がいる。
まだここに来て、たった2週間なのに。
自分の適応力に少し安堵しつつ、同時に恐ろしさを感じる。
人間は環境の産物であり、与えられた環境にいとも簡単に慣れてしまうのだ。

かつてドイツかどこかで、ある実験が行われたという。

その実験とは、被験者を囚人と看守に分け、何日間か架空の牢獄に閉じ込めるというものだった。
はじめは囚人も看守も変わらず、それまで通りコミュニケーションを取っていた。
しかし数日経つと、徐々にお互いが自分の役割を認識し、看守が囚人を虐げ、暴言を吐くようになった、というようなものだった。
人間は役割を与えられると、否が応でも適応してしまうのだ。

そんなことを考えていたら、ようやく自分が乗れるエレベーターがやってきた。
満員のエレベーターは各階で止まり、少しずつ上へと上がっていく。
9階につき、エレベーターを降りると、セキュリティカードを取り出してオフィスに入る。
そうして今日も、社会人の1日がはじまる。

「おはようございまーす」

すれ違う人々に声をかけ、自分の席にリュックを置くや否や、ラウンジのネスプレッソマシーンでコーヒーを淹れる。
熱々のコーヒーを片手に持って、すぐさま会議室へと向かう。
金曜の朝は、定例のミーティングと決まっている。
会議室にはまだ、人がまばらだ。
ゾロゾロと人が入ってきて、全員揃ったところで部屋のドアが閉まる。

"So... shall we start?"

部屋の奥に座る初老の英国人男性が、英国訛りの英語で切り出す。
誰かが"yeah"と返し、会議がはじまる。

男が会議の趣旨を簡潔に説明すると、彼の息子ほどの年齢と思われる別の英国人男性が立ち上がり、やはり英国訛りの英語で話をはじめる。
彼はホワイトボードに殴り書きしながら、今後の営業戦略について早口で説明する。
僕ともう一人を除き、参加者は全員ラップトップを抱えている。
皆で机を囲んで、その誰もがラップトップを抱えているというのは、改めて見ると異様な光景だ。
対面で話をするために集まったはずなのに、なぜラップトップが必要なのか。
いや、そうではなく、特定の人間が話すことを全員がメモすることが重要なのか。
しかしそれなら、メールやチャットでも良いのではないか、違うのか。
そんなことを考えながら、僕は早口で話し続ける男の顔を見つめる。
何かスポーツをやっていたのだろうか、健康的で、表情は生き生きとしている。
しかしその口からは、次々と数字、つまりお金の話が出てくる。
どの顧客から、いくら稼ぐのか、いつまでに。
そういった話を延々と、男は早口でまくし立てる。
そうだ、ここは会社なのだ。

1時間ほどでミーティングが終わり、2杯目のコーヒーを淹れてデスクに戻る。
ラップトップを開き、1時間ばかり作業をする。
それからまた、別の会議のため会議室へと向かう。

今度の会議はさっきよりも大人数で、部屋には15人ほどいるだろうか。
会議室の窓からは、複雑怪奇な構造をした首都高のインターチェンジと都心の摩天楼が見える。
会議を取り仕切るのは、またしても別の英国人男性だ。
その向かいに座る女性のラップトップの画面から、英国オフィスのスタッフも参加している。
東京とロンドンの時差は9時間、距離は1万キロ。
21世紀の今、そんなことは関係ない。
男は半分会議室、半分ラップトップに向かって話しかけ、画面の向こう側から時折女性の声が聞こえる。
女性の顔は見えないが、おそらく30代半ばくらいで、ハキハキと強い口調で的確な意見を言う。
会議室の皆が黙って耳を傾け、女性が話し終えたところで司会役の男が話をまとめる。
スカイプの通話を切ると、男は再び会議室に向けて話しはじめる。

僕はふと、日本は植民地なのではないか?と思った。
英米主導のグローバル資本主義世界における、極東の植民地。

金融の世界では、都市の間に明確なヒエラルキーがあるという。
最上位がロンドンのシティで、次がニューヨークのウォール街、その下に香港やシンガポールなどの国際金融都市、最後に東京を含むその他の大都市。
金融危機を引き起こした現代資本主義の大元は、ウォール街ではなくロンドンシティなのだ。
ドバイも実質イギリス、というよりロンドンシティの支配下にあるらしい。
かつて一度も戦争に負けたことのない、日本よりも小さなこの島国は、今も隠れた帝国なのだ。

世界標準時間が英国時間であることからもわかるように、ロンドンは世界の首都である。
僕はこの事実を、肌で感じた瞬間がある。

10年前の冬、僕は英国留学中の親友を訪ね、ヒースロー空港に降り立った。
ちょうどクリスマスが終わり、年末年始のホリデーを迎えた頃だった。

大晦日の夜、若かった僕らは満を持して、ロンドンの街中に繰り出した。

ロンドン中心部のビッグベン周辺は、人でごった返していた。
新年へのカウントダウンに向けて、街は早くもお祭り騒ぎ。
2007年最後の数時間、ビッグベンの辺りから1時間ごとにDJの声が鳴り響く。

"HOW ARE YOU LONDOOOON?!!! ARE YOU READYYYYY?!!!!"

ハウアーユー、ロンドン。
何というフレーズだ。

たとえば渋谷のスクランブル交差点で大晦日の夜に"How are you Tokyo?!"と聞こえてきたらどうだろうか?
正直、ちょっと様にならない気がする。
武道館でコンサートを行う海外のアーティストが"Hello Tokyo!"と叫ぶのとは、少し違う。
渋谷はあくまで渋谷であり、東京ではない。
しかしロンドンはどこに行っても、ロンドンなのである。
僕らはTokyoiteであるという自覚はあまりないが、彼らは自他共に認めるLondonerなのである。

話を10年前の大晦日に戻そう。

とにかくその夜、街は人でごった返していた。
ヨーロッパ中、いや世界中から人が集まり、寒空の下でビールを飲んでいた。
年が明ける前から酔っ払った、ゴギゲンな人々で溢れていた。

そして2008年を迎えると、ロンドンの夜空に盛大な花火が打ち上がり、人々の歓声が上がった。

"HAPPY NEW YEAR LONDOOOOOON!!!"

謎のシティDJがノリノリで叫ぶ。
人々は誰彼構わずハグをして、新年の幕開けを祝福する。
あまりの寒さに冷え切った身体と街の熱気にギャップを感じながら、僕らは歓喜の輪にジョインした。

ここはロンドン、世界の中心。
そんな彼らのプライドを、見せつけられたような気がした。

僕らはしばらく街のパーティに参加した後、適当な店に入ってフィッシュ&チップスを食べて、明け方列車に乗ってブライトンへ向かった。
モッズ発祥の地としても知られる海辺の街、ブライトンに着くと、僕らは朝のビーチを少し散歩した。
ロンドンの喧騒とは一転し、静かな波音が心地良かった。

浜辺を歩いていると、明らかに左右の目の焦点が合っていない若い男とすれ違った。
男は空中のどこかを見ながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて言った。

"Merry Christmas."

身の危険を感じた僕らは足早にホテルへ移動し、部屋に入るや否や夕方まで爆睡した。
元日の夜、ホテルの部屋で食べたトルコケバブは、それまで食べたどんなフィッシュ&チップスよりも美味かった。

ちなみに親友がコカイン所持疑惑でロンドン警察に逮捕されたのは、この数日後のことである。

2017.10.14
ハル