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ぶっちー、

ボンジュール。

先日はピクニックに誘ってくれてありがとう。
手術で死ぬかもしれないと聞いて、驚いたよ。
もしぶっちーが死んでも、俺は天国のぶっちーに向けてこのブログ死ぬまで書き続けるから安心してくれ。
もし俺が死んだら、、うーん、任せる。

「わたしにとって一番たいせつなこと」拝読しました。

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「今日はなにをしようかなぁ」
わたしには、これが一番たいせつなんだなってわかった。
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生粋の自由人やな。

俺にとって「一番たいせつなこと」なんだろう。
このブログ書き続けられることは、結構たいせつな気がする。
もし法律でブログ禁止されたら、結構辛い。
でも「毎日書け」って言われたら、それはそれで辛い。
「書いてもいいし、書かなくてもいいよ」が最高。
「〇〇しなさい」という強制も「〇〇しちゃダメ」という禁止も、どっちも嫌なんだよな。
要するに、束縛されたくないんだな。
ブログで勝手にダルビッシュの全試合レビュー書くのは楽しいけど、仕事として「書かなきゃいけない」になると辛い。
「書かなくてもいい」自由を確保した上で、好き勝手書きまくりたい。
最近、そんな思いを強くしている。

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「わたしはやりたいことは何もないんです」て言うと幸せの感度が低いんだと思われるようなのだけど、
わたし多分幸せ感動高すぎるんだと思う。
体弱かったから、
みんなと同じご飯食べられるの幸せ、とか、
自分で料理したら、何が入ってるか大体把握できて安心で幸せとか、
掻き傷でパジャマ張り付いてないから朝着替えるの楽チン♡とか。
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うん、ぶっちーは幸せ感度高いと思うよ。
「ちょっとしたことで幸せになれる」って、大いなる才能だと思うんだよね。

たとえば六本木ヒルズに住んでフェラーリに乗って有名女優と付き合わないと幸せを感じられない人よりは、ぶっちーの方が遥かに「幸せになる能力」は高いじゃない。
「〇〇じゃないと幸せになれない」という条件が多いと、人生しんどいよな。
その条件は大体、テレビとか広告代理店の洗脳だと思うけど。

「みんなと同じご飯食べられるの幸せ」ってのも、いいね。
「みんなと同じ」に幸せを感じられるというのは、尊いことだと思うよ。
「みんなと違う」オンリーワンの存在になることに幸せとか生き甲斐を見出しちゃったりするとさ、
究極的には何にも食べれなくなっちゃうし息もできなくなっちゃうし、しんどいよね。
俺は納豆と枝豆が苦手で、それはある意味俺という人間の「個性」だと思うんだけど、
居酒屋でみんなが美味しそうに枝豆食べてる輪にジョインできないのは、ただ残念だし。
みんなと一緒に軟骨の唐揚げをつまんでるときの没個性的な俺の方が、よっぽど幸せだと思う。

「自分だけのオリジナルな欲望を見つけよ」みたいな風潮、あると思うんだけど、
人間なんて99%くらいは大体同じだと思うし、仮にオリジナルな欲望あったとしても、
たとえば変態的な性癖とか、とても人には言いたくないようなものだと思うんだよね。
俺だったらシャワー浴びるの30分かかるとか、1日10時間寝れるとかっていうのも「個性」だと思うんだけど、
別に人に自慢できることでもないし、そんな個性いらんわ、って思う。

ぶっちーを「個性的な人」だと思ってる人、結構多いんじゃないかと思うんだけど、
俺はぶっちー、普通の人だと思うんだよね。
普通の人っていう表現も変だけど、ぶっちーが「他の人々より特別に個性が強い人」とは別に思わない。
そもそも「個性的な人間」と「個性的じゃない人間」がいる、という風に考えてないんだけど。
ひとりひとり顔違うし、体つきも違うし、誰しも生まれながらに個性はある。
俺はぶっちーの個性(たとえばエビが食べれない、とか)を面白がってはいると思うけど、
そのベースとして、ぶっちーが大部分で普通の人というか、多くの人と共通する感覚を有していることが重要なのであって、
もしそれがなかったら、ただの宇宙人としか思えないと思う。笑

ぶっちーという人間、あるいは俺という人間が他の人間に比べて特別に個性的、なんてことは全くなくて、
たまたま生まれた関係性の中で、俺はぶっちーとのコミュニケーションを面白がれるようになって、
ちょっとした思いつきで今こうして交換ブログしてる、っていうだけの話だと思うんだよな。
だからこの交換ブログは極論、誰でもできると思ってるし、
誰でもできる雛形になってこそ面白い、とも思う。
今こうして書いてても、コンテンツの内容は実は大して重要ではなくて、
ある関係性の中で継続的なコミュニケーションが発生してる、というのが重要なのではないかという気がする。
だから書くネタがどれだけあっても、コミュニケーションに消極的なときはお互いなかなか書けないし、
別に面白いネタがなくても、コミュニケーションする意思さえあればいくらでも書けるんだろうな。
コミュ障がそんなコミュニケーション語っていいのかよ、って話はさて置き、
今書きながら、そんなことを考えたのでした。

ビジネスメールとか典型的だけどさ、世の中「相手がこうきたらこう返す」みたいな反射的コミュニケーションが溢れ過ぎてて、
あるいは「大きな声で自分の主張を怒鳴り立てる」トランプ的なスタイルがコミュニケーション能力だ、みたいな風潮もあると思うんだけど、
毎日そんなことばっかりやってると、人としてまともなコミュニケーションできなくなっちゃう気がするよ。
何か目的を果たすために(仕方なく)コミュニケーションするんじゃなくて、
コミュニケーション自体を目的として、遊ぶように喋ったり書いたりする時間をしっかり確保しておきたい。
そのためにもこのブログを禁止されたら困る、と、ここで最初の話に戻るわけです。

何だか勢いで書いちゃったけど、俺の言いたいことうまく伝わるかな。
コミュニケーション云々語っておいて全然コミュニケートできてなかったら恥ずかしい。
とりあえず、手術が無事成功することを祈ってるよ!
神の幸あれ、アーメン。

2017.09.12
ハル