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ぶっちー、

こんばんは。
寒波吹き荒れるこの季節、いかがお過ごしですか?
まだまだ寒い日が続くので、くれぐれもtake care of yourself.

20歳の夏にカリフォルニアをドライブして以来、人生の幸福度の50%くらいは気候で決まると本気で信じてるんだけど、
東京の冬は(夏も)年々、ハードモードが加速してる感が否めない。
一刻も早く南カリフォルニアか南欧で暮らしたい、そんな今日この頃 as alwaysです。

俺が考える人生の幸せ条件って、20歳くらいの頃からあんまり変わってない気がしていて、
地中海性気候とゴキゲンな音楽、それから表現の自由があれば大体ハッピーなのではないかと思う。
たまにメジャーリーグ観れる環境でもあれば、なお良し。

20歳の頃から変わったことと言えば、最近は「もうちょっと社会に適応しようかな」って思ってる(ようやく)。
迎合ではなく、適応ね。

某高城先生が、これからの時代に活躍するのは「社会性のある変人」「センスよく社会に迎合しない人」って言ってたのが、印象に残ってて。
今のぶっちーはたぶん、かなりイイ線いってる気がする。
よっ!女流高城剛!(違うか)

ところで、ぶっちーが前回のエントリーに書いてた話だけど。

「変わってしまった後は、元の場所を思い出すのがすごく難しい」

これ、本当にそうだなって思った。

よく「過去は変えられない」って言うけど、人はたぶん、常に過去の記憶を塗り替え続けていて。
現実以上に美化したり、あるいは悲劇的に捉えたり。
それは「今を生きていく」ために必要な、ある種の記憶操作なのではないかと思う。
過去の記憶を塗り替えでもしないと、人生やってられないというか。
自分の人生の脚本を書き続けていく中で、物語のつじつまが合わなくなってきたら、
これまでの脚本を勝手に書き換えちゃうことが多々あるんだと思う。

平野啓一郎の『マチネの終わりに』という小説に「過去は変えられる」というフレーズが出てくるんだけど。

過去の辛かったこととか、いわゆるトラウマみたいなものとか、
そういうのは、あるキッカケでふと、見え方や捉え方がガラッと変わり得る的な。
もちろん「何が起こったか」という事実は変えられないけど、その意味合いは変わり得る、と。

人はたぶん、知らず知らずのうちに過去に縛られてしまっていて、
過去の延長線上にしか、未来を捉えることができなくなってしまうことが多いと思う。
「今までこれだけ時間と労力を投資してきたんだから、回収するためにこれを続けねばならない」みたいな。
でも、これって経済学で言うとサンクコスト的な、非合理的な発想だよね。
あるいは「人生を一度リセットして、これまでとは全く違う生き方をしよう」というのも、結局は過去をベースとした未来観という気もする。
人生第1部はこれにて終了、これから第2部の脚本をゼロから書き始めます、的な。
でも、たとえばジョジョの第1部から第6部まで、物語の舞台や登場人物は違っても一貫した世界観があるように、
同じ作者が書き続けている限りは、どうしてもシリーズを通して一貫した作品になってしまうんだと思う。

何が言いたいのか自分でもよくわからくなってきたが、まあともかく。
人は過去の記憶がある以上、過去から完全に解放され、自由になることはできないのではないだろうか。
だからどうってわけでもないんだけど、そんな気がする。

昔ドイツで行われた実験で、アウシュビッツ強制収容所にいた人たちに終戦から数年後、
当時のトラウマについて語らせてみたら、その内容の大半は事実とは違っていて、
ほとんど捏造に近い記憶を有していることがわかったんだって。
心の傷は残っていても、実際に経験したことは実はほとんど覚えていない、という。

無意識のうちに捏造した過去の記憶が、未来の可能性に制限をかけてしまっているのだとしたら、
そこから可能な限り自由になるには、どうしたら良いのだろうか?

もちろん、たとえば俺が今からメジャーリーガーになるとかはたぶん無理だし
「俺たちは何にでもなれる」なんて青臭いこと言うつもりは毛頭ないんだけど、
でもたぶん、俺も含めて多くの人は、自分で思っている以上に「何にでもなれる」んだと思う。
ぶっちーが結婚して就職して「人生変わった」ようにね。

前回のエントリーでぶっちーは、

「ただ、わたしがどこにいても、だいたいあなたとの距離感は変わらないんだろうなっていうぼんやりした未来予想図だけ持たされてる気はしてる」

とも書いてたけど。
未来予想図を「持っている」ではなく「持たされてる」というのが興味深い。

ぶっちーに未来予想図を「持たせている」のは一体、誰なんだろう?

神?神の見えざる手?AK?
俺の未来予想図は一体、どこにあるんだろう?
実は手に持ってるけど、気付いてないだけなのかな?

30年も生きてきたら、これまで無数の人生の選択肢を捨てまくってきたわけで、
同時にこの先、無数の人生の選択肢が残されているわけで、
これからも1秒ごとに選択肢を選び続ける、言い換えるとそれ以外の選択肢を捨て続ける作業を続けることになるわけだけど、
この作業に自分の意思というものがどれほど関与しているものなのか、俺にはよくわからない。
自分で主体的に選んでいるようで、選んでいないような気もするし、
運命論ではないけど、宇宙に導かれているような気もするし、
自ら切り拓いているようでも、ただ流れに身を任せているだけという気もする。
いわゆる「周りに流される」というのではなく、Just go with the flowというのかな。
まあ、つい流れに逆らいたくなってしまうことも多々あるんだけどね。

コップに水が半分入ってるとき「半分しか入ってない」と見るか、
それとも「半分も入ってる」と見るか、それが問題だ的な話があるけど。

俺は果たして「もう30歳」なのか、それとも「まだ30歳」なのか、それが問題だ。

まあ、別にどっちでもいいんだけど、そのときどきで都合良く、良く言えば柔軟に、
「もう30歳」と「まだ30歳」の両方を使いわけながら、しぶとく生きていければいいのかな。
「たかが年齢」と「されど年齢」の間も行き来しながらね。

この前、南直哉さんっていうお坊さんが書いた「老師と少年」っていう本を読んだんだけど、
その中に「生きる意味より、死なない工夫」っていうフレーズがあって、結構響いた。
ソクラテスとプラトンさながら、老師と少年の対話形式で進む本なんだけど、良かったら読んでみて。

これから先、俺たちにどんな未来が待ってるのかは誰にもわからないけど、
まあ何はともあれ、もうしばらく生き延びような。
'Cos we're too young to die.



Sincerely yours,
Thanks.

2017.02.09
ハル